2009年06月30日

水俣は遥かになりて・13

しかし、それでもチッソは動かない・・・


・・・いや、チッソは動いていた!
自主交渉の患者一団の親戚縁者をジワジワと攻めていったのである!
アメのばら撒きである。
お菓子を持っていくなどは序の口で、「家の改築資金を融資する」「子どもを役所に採用する」など甘い蜜を匂わすのである。

東京本社同様に水俣チッソ工場でも座り込みがされていたが、さすがに3ヶ月も経つと疲れもでてきた。その後の見通しもなく挫折しかかったが、互いの助け合いで乗り切った!


裁判中にもチッソの切り崩しがあった。地元有力者が原告幹部に「勝てるわけがない。死者500万円で」と和解を持ち掛けた!
東京本社での座り込みから1年後の1973年3月20日。
熊本地裁「水俣病第1次訴訟」の判決で、原告側は勝訴した!
しかし、バンザイも歓声もない。
その日からも変わらず水俣病を生きていかなければならない患者家族に、笑顔はなかった。

2日後、原告団はチッソ本社へ出向き誠意の証しに「判決に従いすべての償いを果たす」という誓約書への署名を求めた!!!
しかし、チッソは「『可能な限り』と入れてほしい」と繰り返す!!!
いざとなればこの『可能な限り』という文言を盾に使おうというつもりだ!!!

これに対して当時の環境庁長官・三木武夫が「もっと誠意ある回答を示すように」と直々の苦言を呈したところ、こともあろうにこの場に及んで、チッソは社員が書類を抱えて本社から消えるという恥知らずのマネを行い逃れた!!!

逃げる悪魔


曲折が続くなか、患者側の要求を入れた協定書がようやく調印されたのは、同年7月9日だった。

 「必ずしも明るい展望は保障されていないが未だに不知火海沿岸、有明海沿岸に取り残されているとみられる患者、救いの手を待つ漁民等々と苦楽を共に分かち、公害撲滅とチッソと行政の原罪追及の闘いに歩き出すものである」



原告患者のひとりの悲痛な叫び!!!

「わたしゃ愛も知らん、恋をしたこつもなか。水俣病がさせた。おなごなのに男になって暮らしてきた」「銭は返す。ここでばらまいてもよか。金銭で何でも片づくと思うな!人間は何のために生まれてきたつか!」


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Posted by hamkichi at 12:12│Comments(0)水俣病
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